第1章 旅の始まり
現代人類の直接の祖先であるホモサピエンス(=新人)は、今からおよそ10万年前に誕生の地アフリカを出て世界へ向かって移動・移住をはじめ、地球年齢から見ると驚くほど短期間に地球の隅々にまで広がった。考古学が示すところによれば、人類はその前の原人・旧人の時代から道具を使い、火を使い、知力を発展させて身体の外に環境適応能力を獲得し、アフリカだけを居場所にする必要がなくなって、外へ向かって出て行ったと推定されている。新人が徒歩でアフリカを出発し、中近東を経てユーラシア大陸へ、そして現在のベーリング海峡を通過して最終地点とされる南米大陸の南端にまで到達した「旅」に現代人は壮大なロマンを感じ、これをグレートジャーニー(注)と呼んだ。現代の日本人探検家関野吉晴は、そのコースを敢えて人力のみによって逆に辿るという途方もない企てを敢行し、テレビその他の媒体を通じてわれわれを楽しませてくれた。
何が人類をグレートジャーニーに誘い出したのか。考古学者は、「考える人」にとって未知なるものは恐怖であると同時に好奇心の対象でもあって、自発的な移動であったろうという。言い換えれば、人類は誕生と同時に、旅の原点というにふさわしい「知的好奇心」にもとづいて行動していたというのである。かくて、原始の人々は様々な環境を選んでそれぞれの地に住み着いたが、狩猟・採取の時代には、季節ごとに、あるいは必要に応じて、新しい食料の自産地を求めて移動を続けなければならず、長らく移動を常態としていた。
旅は移動が本質ではあるが、グレートジャーニーはもとより、定住しない人々の移動の日常までを対象にするのは控えよう。本書が扱う旅は、人々が定住し、日常生活の拠点を固定したのち、何らかの目的で一時的に定住地を離れ、目的を達成して再び定住地に戻る行動に限定しよう。言い換えれば、農耕によって食料を自ら生産する技術を身につけ、定住し、集落を営み、都市を作り、文明を生み出した時期をもって旅は始まるとみることにしたい。事実、人々は定住したからこそ日常生活圏にないものを遠方に求め、意図的かつ積極的に旅をするようになったからである。旅することは、定住地に存在しない塩をはじめとする食品や生活必需品、あるいは奢侈品を得るための行動であったことはもちろん、他国の文物に触れて相互に刺激しあい、新しい知識と知恵を得たいとする人類固有の願いの結果でもあったのだ。
ならば古代の人々はどのように旅をしたのか。旅する場合の第1の要件は移動(交通)の手段である。次に、旅は日常生活圏を離れた生活の総体であるから、日常と同じように衣食住が必要であり、中でも旅先での宿泊と食事が第2の要件となる。第3に、旅に出るためには、目的地や道中に関わる情報や安全の確保など、ソフト面でのサービスがある程度整っていないと不可能である。もしこれらの要件を欠いたまま旅に出るとすれば、それなりの覚悟が必要であり、旅はほとんど冒険であり、探検に近いレベルになる。
古代の人々は旅をどう考えていたのか、旅のためのインフラはどのように進展したのか、残されている資料は少ないが可能な限り追跡してみよう。
旅と観光
ところで、本書が扱おうとするのは第一に「観光の旅」、すなわち、楽しみのための旅や好奇心を満たすための旅である。そこで確認しておきたいのは、出発の第一の目的が観光でなくても、ひとたび旅に出れば、苦労や危険が多い一方で、本来の目的とは離れて風景文物を楽しむ時間帯もあるし、未知の土地に迎えられて歓迎を受け、新しい知識・体験を自分のものにするなど、結果として、旅には否応なく観光的な行動も含まれるという事実である。旅から得られるものは多い。出立の直接の目的の如何を問わず、旅は人を育てる機会であり、エリック・リードが「旅の思想史」(参考文献O)の中で言っているように「旅は模範的な体験、つまり体験する人を変容させる直接的かつ純粋な体験のモデル」なのである。旅をする機会と特権を得た者は、帰宅後その体験を語り、新しい知識を人々に伝え、尊敬され、ときにヒーローとして扱われ、それが社会の発展に繋がっていったのである。
観光が楽しみや好奇心を満足させる旅として独立するのは、ずっと先のことになるだろう。しかし、そもそもの始まりから、旅することから得られる効用は知られていたのであり、観光とは、後代においてその効用を意識的に活用する旅として、それにふさわしい名を与えられたに過ぎないのだと考えておこう。
旅と旅する人々の記録
歴史時代以前にも旅が行われたことに相違はないが、記録に残されていない以上それらを知ることは出来ない。文字が発明されてからも、考古学や歴史学の文献に旅ないし旅の条件に関わる言及は極めて少ない。それらの記録を目に付く範囲で拾い集め、可能な範囲で旅の歴史を、旅のインフラの進展とともに再構成してみよう。
古代において、旅は苦痛であり危険でもあったから、観光を主たる目的とする旅は限りなくゼロに近かったが、他の様々な目的で旅する人たちは数多くいた。一握りの特権階級なら、避寒や避暑、あるいはレジャーとしての旅、知的探求のためなどに旅に出ることさえあった。クリストファ・ハロウェーによれば、旅の記録は紀元前2000年代の古代バビロニアやエジプトにまで遡ることができるが、それらは交易、公務、戦争など、必要に迫られての旅であった。例えば、ライオネル・カッソン「古代の旅の物語」はパピルスに記載された古代の旅の記録が発見されたとして、エジプトのウェンアメンという神官が命じられてレバノン杉を買付けに行く旅の記録を紹介している。杉を買う代金も旅費もすべて盗まれ、苦心惨憺する様が書かれている。紀元前1130年頃のもので、本当であればこれが世界最古の旅の記録であるという。当時のビジネス旅行の始末を書き残したもので、この種の旅は大いに行われていたであろうことを窺わせる。
聖地訪問や祭事参加など宗教目的の旅も古くから行われ、それらに関連する形で「観光」すなわち楽しみのための旅や行動もなかったわけではないという。ハロウェイは、紀元前1490年頃にエジプトのハトシェプスト女王によるプント(今日のソマリアらしい)への旅を観光目的としている。これは平和主義者であったハトシェプストが交易と親善の目的で船隊を派遣し、彼の地の情報や乳香,没薬、黒檀、象牙その他の産物を満載して帰国したことを指すものであろう。また、エジプトのジェセル王のピラミッドに隣接する小神殿の内壁の落書きは、遠い古代にも人々が観光旅行を行っていたことを示しているという。この落書きにはBC1244年に当たる日付があり、「宝物庫の書記ハドナクテは、兄弟である宰相の書記ペンナクトとともに行楽に出て、メンフィスの西にて楽しんだ」と書かれているという(ライオネル・カッソン「古代の旅の物語」)。このころすでにジェセル王のピラミッドはもちろん、ギザのスフィンクスや三大ピラミッドは、建造されてすでに千年以上の時を経ており、カッソンの言葉を借りれば、「大昔の建物に囲まれて、まるで博物館に暮らすようになっていた」のであって、これらを訪れるのは明らかに好奇心や利害を離れた楽しみのためであった。中には書記の養成学校の修学旅行と思わせる落書きもあった。書記とは王直属の行政官であり、文字の読み書きを専門とする当時のエリート中のエリートであったことは言うまでもない。ただ、数行の落書きでは、楽しみの旅の存在を裏付けはするが、それ以上に想像を膨らますわけにもいかない。
観光が主たる目的でない旅なら、古代の人々も大いに旅をした。第一に、交易を目的にする旅、第二に、統治に関わる公的な旅、第三に、戦争のための旅(市民や農民を含む)、第四に、祭事参加や神託を求めるなどの宗教目的の旅があった。そして、第五に、今日的な意味での観光に最も近い旅として、人類に特有の好奇心にもとづく冒険・探検など、自発的に困難に打克って行う学問や知的探求の旅もわずかながら存在した。
メソポタミヤやエジプトで文明が誕生し、文字が発明されて歴史時代に入ると(紀元前3100年頃とされる)、様々な記録が残されるようになる。メソポタミヤでは初期のシュメール文化以来の大量の粘土板が出土しているが、刻まれた文字はほとんどが王室の財産管理や行政目的の無味乾燥な記録であるという。文字に記録して残しておく必要があると考えられたのは、何よりも財産管理や契約書などであって、神話や伝承など心的活動の所産が記録として残されるようになるのはずっと後のことである。
やがて人類最初の文学作品といわれる「ギルガメシュ叙事詩」が誕生する。ギルガメシュ叙事詩は、19世紀半ば以降にメソポタミヤ遺跡群の発掘によって発見された大量の粘土板の記述を読解し再構成したもので、旅を主題とした最初の記録でもあった。紀元前2000年頃には伝承として成立し、前1800年頃には成文化されていたとされる。旅に関わる最初の記録として、また、古代オリエントから現代に残された最大の文化的遺産のひとつとして、この「ギルガメッシュ叙事詩」の成立とその内容をざっと見てみよう。
伝承の語る旅「ギルガメシュ叙事詩」
矢島文夫訳「ギルガメシュ叙事詩」から矢島の解説の助けを借りて物語のあらすじを紹介すると以下のようになる。
シュメールの王国ウルクの王ギルガメシュは、3分の2が神、3分の1が人間であり、英雄であると同時に暴君として住民に恐れられていた。とりわけ彼が都の乙女たちを奪い去る悪業が憎まれ、人々は神々に対処を訴えた。神々は訴えを聞き入れ、そのためにエンキドゥという野人を荒野に誕生させる。エンキドゥは聖娼と交わり人間らしい生活を知る(文明人になる)。エンキドゥとギルガメシュは激しい戦いの末親友になる。しかし、エンキドゥはウルクでの安楽な生活に満足できず、ギルガメシュにも同じ気持ちがあって、恐ろしいフンババが守る杉の山に旅をし、フンババを殺して杉の森の木を切り倒す。彼らがウルクに帰りついた後、愛と逸楽の女神イシュタルがギルガメシュの雄姿に魅せられて誘惑するが、昔日の暴君とは様変わりしていたギルガメシュは拒絶する。怒った女神はギルガメシュと王国ウルクを滅ぼすために天の神アヌと天の牛を送り、何百人というウルクの戦士が殺されるが、二人の英雄はこれに打ち勝つ。
しかし、エンキドゥは天の牛を殺したために神々から間もなく死なねばならぬという運命を告げられ、12日間の病苦の後に悲嘆にくれるギルガメシュに看取られながら死ぬ。ギルガメシュは親友の死によって命に限りがあることを知り、自分もいずれ死ぬことを悟り、唯一不死を知るウトナピシュティ(注)を訪ねる旅に出るが、結局むなしいことを知る。
シュメール語のギルガメシュ伝承をもとに古バビロニア時代に成立したこの叙事詩には、アッカド語、アッシリア語、ヘブライ語を含むいくつものオリエント語版が存在し、この地域一帯の民族が共有する伝承の物語であったことが判明している。ギルガメシュの名はシュメール初期王朝Ⅱ期のウルク第1王朝(前2600年頃)に実在した王に由来するが、その死後早い時期に神格化され、いくつかの実際にあった事跡を含みつつ、長い時間をかけて想像世界に結晶したものである。
叙事詩は「旅」を中心に展開され、主人公ギルガメシュは二度旅をする。最初の旅は上述の《杉の森》への旅で、樹木のない水と土と太陽だけの南部メソポタミアから、杉の森で名高いレバノンへの木材を求める征服の旅であったろうという。エリック・リード「旅の思想史」は、冒頭にギルガメシュ叙事詩を取り上げ、第一の旅を「英雄の旅」と命名し、動機を森の守護神フンババと戦うことによって(成功しても失敗しても)自身の名と行為を不滅の記録として残すためであるとする。事実メソポタミヤの王たちの多くは、神に愛されたものとして、戦闘における自らの英雄的行為や治世の功績を碑文に刻ませて後世に名を残している。
第2の旅は永遠の生命を求めての旅であり、人は死ななければならないという認識に至る旅である。叙事詩の最初の一節が「すべてを見た人(深淵を見た人とも訳せる)のことを人々に知らせよう」という言葉で始まっており、矢島は、ギルガメシュは「神話時代からの脱却、理性の目覚めを告げる意味をもつ」とし、月本昭男訳「ギルガメシュ」の解説はさらに深く、神の否定から死と生命の意味の発見に至るギルガメシュの精神の遍歴を、多くの学説をフォローしつつ解説している。
ギルガメシュ叙事詩の旅は、空間を行く旅でありながら、それ以上に人間の生と死をめぐる知的成長への旅であり、宗教性のほとんどないニヒリズムの色彩を漂わせている。5000年もの昔、歴史時代の最初期に生きた無名の叙事詩作家たちが、これほど深みのある人生観を歌い上げていることが驚きだった。今これ以上深入りする余裕はないが、正直のところ、「旅と観光」をキーワードに歴史を見直してみようと始めた試みの中で、最も衝撃を受けた一つがこのギルガメシュ叙事詩における「旅」であり、月本による解説であった。
今日に残されている楔形文字の最後の例は紀元前6世紀のもので、それ以後のものはない。古代オリエントの世界は、その後ペルシャ、マケドニア、ローマ、イスラムに征服され、忘却のうちにその文化は断絶した。19世紀に至って西欧列強の支配下に古代の記録が発掘され解読されて再び日の目を見るのだが、現代への連続性は断たれている。今日までの発掘では、古代オリエントの文学作品はギルガメシュ叙事詩以外に見当たらず、文学にしろ、旅にしろ、のちの展開をうかがい知ることはできない。
第2章 古代ギリシャ時代の旅
「ギルガメシュ叙事詩」に次いで伝承に登場する旅は、古代ギリシャ文学を代表する叙事詩「オデュッセイア」に見る海上の旅である。「オデュッセイア」は「イーリアス」とともにギリシャ文明の夜明けの時代(前8世紀)に生まれた壮大な叙事詩である。主題となっているトロイア戦争はミュケーナイ文明時代の紀元前1200年代に起こったと推定されており、前8世紀に生きたとされるホメーロスが、口承によって語り伝えられてきた400年も昔のトロイア戦争を題材に「イーリアス」と「オデュッセイア」という2つの物語にまとめたことになっている。トロイア戦争が史実であったことは、「イーリアス」の記述を事実と信じたハインリヒ・シュリーマン(1822~90)がトロイアやミュケーナイの遺跡を掘り当て、その後の多くの発掘や考証によって実証された。トロイアはエーゲ海から黒海に抜けるヘレスポント海峡(現ダーダネルス海峡)の入り口を扼する小アジア北端の要衝で、この地をめぐってミュケーナイと小アジア勢力との間で長年にわたる争奪戦が行われたことが窺われる。トロイア戦争が史実であれば、後日譚の「オデュッセイア」も何らかの歴史的事実を含むものと考えられ、様々な推定が行われているが、確かなことはわからない。
トロイア戦争に勝利したギリシャは、暗黒時代といわれるその後の400年間に、海峡を越えて黒海に入り、沿岸に多くの植民地を建設していったことが証明されている。
伝承と事実の間の旅:叙事詩「オデュッセイア」
「オデュッセイア(=オデュッセウスの物語)」は、10年に及ぶトロイア戦争を戦ったギリシャ軍の英雄の1人イタケーの王オデュッセウスが、帰国の船出をしたのち海神ポセイドンの怒りゆえに帰国を妨げられ、さらに10年も地中海をさ迷うはらはらどきどきの冒険物語である。とはいえ、「オデュッセイア」はオデュッセウス漂流の物語だけではなく、トロイア戦争の後日譚として、トロイア戦争に出陣したギリシャ方の多くの将たちのその後の運命も語られている。全24巻の長編(12,110行)のうち、オデュッセウスの遍歴が語られるのは第5巻~第13巻の8巻のみである。第1巻~第4巻では、神々の集会でなぜオデュッセウスがトロイア陥落後8年間も帰還できないかが説明される。神々が協議の結果彼を帰国させることに決め、息子テレマコスが神々の勧告にしたがって先に帰国しているピュロス王ネストールとスパルタ王メネラオスを訪ね、行方不明の父の消息を知るまでの物語である。第5巻で初めてオデュッセウスが登場し、第8巻までにおいて、7年間閉じ込められていた美女カリュプソの洞窟から、ヘルメス神に救われて可憐な王女ナウシカの住む島に到着し、王宮に迎えられてカリュプソからの脱出と王宮到着までの冒険が語られる。第9巻~第12巻で、オデュッセウスの素性を知った王の求めに応じて、一人称でトロイを出てからの長い冒険が語られる。一つ目のキュクロープス、魔女キルケー、ハーデス(冥界)下り、セイレンの誘惑などの物語が続く。全体の半分に当たる残りの12巻(第13巻~第24巻)は、オデュッセウスの故郷への帰還、留守中の妻ペネロペイアに対する傍若無人な求愛者たちに対する復讐の物語、というのが全体の構成である。
「ギルガメシュ」では、旅への出立が自主的で、空間の旅である以上に自己の探求と成長への旅であったのに対し、オデュッセウスはギリシャ軍きっての智将としてすでに完成された人間であって、旅を通じて人格が変化したり成長したりする物語ではない。むしろ一人称で語られる漂流の内容は、人間の好奇心や名誉欲、冒険心や恐怖、不信や裏切りに満ちた人間くさい物語である。ルチアーノ・デ・クレシェンツオ(草皆伸子訳)「『オデュッセイア』を楽しく読む」は、その面白さを次のように書いている。
ひとつだけはっきりいえることがある。当時『オデュッセイア』は今日のテレビドラマに当たるものであったということだ。つまり、紀元前8世紀にギリシャ人の金持たちは毎晩夕食後どのように過ごしたのだろうか、と考えるとわかりやすいだろう。別に特別のことをしていたわけではない。シンガーソング・ライター(できれば盲目のほうがよい)が歌うのを聞いていたのだ。歌手たちは食事やちょっとした褒美をもらう代りに毎晩少しずつ面白い話を物語った。
叙事詩「オデュッセイア」は、オデュッセウス漂流の部分だけがクローズアップされがちだが、物語のバックグラウンドは、トロイア戦勝利後のミュケーナイの政治的状況であり、将兵帰国の後日譚は、ギリシャ各地から集まった小王国の領主たちの運命が何らかの歴史的事実を反映しているのかもしれない。トロイアを攻めたギリシャ軍には神々の怒りに触れる行いも多く、オデュッセウスの苦難のみならず、勇将アイアースは海中に沈み、総大将アガメムノンは嵐を逃れて帰国は出来たものの、妻とその愛人アイギュストスのたくらみによって殺され、スパルタ王メネラオスは、オデュッセウスと同様8年間の放浪の後にようやく故郷に辿りついている。「イーリアス」がトロイアとの攻防を描く英雄物語であるのに対し、「オデュッセイア」は、漂流の冒険譚も復讐の物語も個人の生き方や感情を生き生きと描いており、それらの詩句についての分析研究も多い。人によって解釈は様々であるが、それだけ読む人によっていかようにも解釈できる内容をもっているということであろう。物語に登場する船や航海の仕方などは、文献学や考古学などを通じて研究され、地中海の交通や海運の状況を推測する手がかかりをも提供している。
オデュッセウス遍歴の道程 「オデュッセイア」と「イーリアス」はヨーロッパでは教養の一部として誰でも知っている物語である。当然ながら、10年に及ぶオデュッセウスの遍歴に登場する架空の場所を、その描写を頼りに現実の地図上に特定しようという試みは、前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスをはじめ、過去現在の多くの学者たちによって行われている。実際に読んでみると、確かにヒントと思える描写も多い。この点について既出の「オデュッセイアを楽しく読む」は、第6話に出てくるはすの花(麻薬の効果がある)を食べるロードパゴイ族の国について、エジプト説、リビア説、はてはポルトガルだったという説まであることを紹介して、そんなことは「白雪姫と七人の小人たち」がどこの森に住んでいたかを知ろうとするのと同じで意味がないと言っている。そのとおりだという気もするが、多くの学者たちが様々な説を唱えており、実際どのようなコースを辿った可能性があるのか、事実かどうかを超えて興味がある。旅がテーマの本書では、どういう説があるかくらいは紹介しておこう。
日本で紹介されている中で最も詳しいのは、フランス人ヴィクトール・ベラール(1864~1931)によるものである。その図は田中秀央他訳「オデュセイアー」(上)に、Berard’s Theory of the Wandering of Odysseusとして掲載されているし、バーバラ・レオニ・ピカード著(高杉一郎訳)「オデュッセイア物語」にもベラールの別版図とアーンリ・ブラッドフォードErnle Bradford(1922~1986)の同じような地図が対比して紹介されている。また、塩野七生氏の「ローマ人の物語Ⅰ」にも、部分的には違うがよく似た地図が載っている(参考までに転載?)。
ベラール説をざっと辿ってみると次のようになる。エーゲ海を出た後まず「はすの花を食べる人の島」(チュニジアのジェルバ島)へ行き、ついで「一つ目巨人キクロープスの島」(ナポリ湾)へ行き、「風の神アイオロスの島」(ストロンボリ島)から「食人種の住む島」(コルシカ島南端のベニファチオ)へ、ここからイタリア半島の南西岸を「キルケーの島」(ローマに近い海岸)、「ハーデス(冥界)への入口」(ローマとナポリの中間)、「スキュレとカリブデスのいる島」(シシリア島メッシーナ)を経て、「カリュプソの囚われ人となったオギュギュエ島」(ジブラルタル海峡のアフリカ海岸)で7年間を過ごす。そこでヘルメスに救われて故郷に近い「王女ナウシカの島」(ギリシャ西岸のコルフ島)に辿りつき、この島で漂流の一部始終を語り、そこから王の支援でイタケー(ペロポネソス半島の西岸)に帰還する。
ホメーロスの叙事詩が成立したとされる前8世紀は、ギリシャ人が西地中海方面に新たに殖民活動を展開し始めたばかりの時期であって(黒海沿岸への植民はトロイア戦争後に始まっている)、シチリア島や南イタリア各地にギリシャの植民地が生まれつつあったが、まだマルセイユ(マッシリア)やマラガなどのヨーロッパ大陸西北岸にまでは達していない。物語のバックグラウンドは、彼ら自身の体験とフェニキア人を通じて得た知識に基づいているのであろう。オデュッセウスの漂流のコースについて詳しく知りたい方はinternational版wikipediaのGeography of the Odysseyを参照されることをお勧めしよう。
いずれにしても、ギルガメシュの自己の内面への旅と違い、世界への関心、国際化への道、地理的な知識や関心が大きな主題になっており、観光動機のひとつを代表するものであるといっていいだろう。
神話・叙事詩から科学へ:神々から人間へ
以上、「ギルガメシュ叙事詩」と「オデュッセイア」という古代を代表する叙事詩に登場する旅をみてきた。現代の旅に例えれば、前者がどこへ行くか以上に「旅」に出ること自体に意味があり、傷心を癒し、自省し、自己探求につながる心の旅に例えられるとすれば、後者は旅の冒険やハプニング、発見の楽しさを求める旅を代表する内容になっている。ともあれ、両叙事詩以前には、旅についての古代人の想いを想像させる記録は存在しない。また、古代の伝承叙事詩といえば「ギルガメシュ叙事詩」と「イリアス」と「オデュッセイア」の3作品しか現代に残っていない。したがって、この時代までについてはこれ以上旅についてのまとまった記録がなく、旅はまだ具体性をもって語られてはいない。
民族がその黎明期に持っている神話や伝承は、文字のない時代の出来事や教訓などを口承で伝えてきた物語である。その中で叙事詩は、断片的で錯綜した遠い昔の数々の伝承の中から、詩才ある者が取捨選択して語りの筋書きを作り上げ、何代にもわたって語り継ぎ、改変されながら次第に固定化してきたものである。「オデュッセイア」は「イーリアス」とともに前800年頃のホメーロスの作と伝えられるものの、詩人ホメーロスの実在を確認することはできない。高津春繁著「ホメーロスの英雄叙事詩」によると、ホメーロスの生きた年代を求める学説には、早いほうは紀元前1159年から遅いほうは前686年まであり、生まれた場所も不明である。ともあれ、作者がホメーロスであろうとなかろうと、ギリシャ文学は前700年頃、「イーリアス」と「オデュッセイア」の2大叙事詩の文字化という形で突然誕生したのであった(高津春繁編「古代ギリシャ文学史」)。
ギリシャ文明の突然の開花は、ギリシャ人がフェニキア人と接触し(前9世紀頃と推定)、安定的な通商関係を維持することによって、フェニキア人の表音アルファベット文字(子音のみ)を学び、これを改良して自分たちの文字(ギリシャ文字)とすることによって実現した。東地中海には、メソポタミヤとエジプトの先進文明の影響を受けて、紀元前2000年を少し過ぎた頃にまずクレタ島に壮大な宮殿文化が開花し、ついでその影響下にペロポネソス半島南部にミュケーナイ文明が栄えた。両者とも前1700~1500年頃に最盛期を迎えるが、ともに1200年頃突然滅亡している。クレタ・ミュケーナイ文明時代の宮殿の遺跡から粘土板の記録が多数発掘され、「線引きB」なる固有の文字が一部解読されたが、記録の内容は王室の財産管理や必要最小限度の行政の記録などでしかなかった。クレタ・ミュケーナイ文明滅亡後の400年間は何の記録もないまま過ぎ(それゆえ暗黒時代と呼ばれる)、前800年を過ぎた頃にギリシャ文字が誕生し(発見された最古のギリシャ文字は前750年頃の壺に書かれたもの)、かくして口承の叙事詩が文字によって書き残されたのであった。
ギリシャ文化がそれ以前の文明になかった「知の文化」を発展させ得た理由は、文字の改革が大きな要因であるという。多種多様な記号の習得に長年の訓練を要する象形文字や音節文字は、結果として書くことを専門職階級だけに限定していた。これに対し、ギリシャ人が工夫したアルファベットは、2ダースほどの記号を使って全てを書き表すことができ、読み書きの能力を速やかに身に付けることを可能にしたのであった。
しかし、それでもなお、文字は長らく王家の財産や行政の記録などに使用されるのみで、文学その他の非実用的な事柄は、吟唱や口承による伝達が中心であった。ホメーロスの叙事詩といえども暗唱するために作られたものであって、記録にとどめられたとしても、それはテキストを定着させるためのもので、読者に読ませるものではなかったのである。
ヘシオドスの叙事詩:初めての生身の人間の声 ギリシャ文字の誕生は、記録による伝承の継承だけでなく、やがて事実の追求へと向かう新しい知性の登場を促し、人類史上初めて特定の個人の肉声を記録にとどめることになる。その最初の人がヘシオドス(生没年不詳、ホメーロスと同じ前800年頃の人とされる)であった。ヘシオドスは「神々の誕生(皇統記)」と「仕事と日々」の2作品を後世に残したが、それぞれの中で著者が自分自身について語り、はっきりと作品の意図を述べ、作品の中で自己主張を展開している。どちらも彼以前にはなかったことである。ホメーロスとの違いは、語り継がれてきた伝承の物語と特定の作家による創作の違いであり、その差は決定的である。後者の場合、作品の内容は伝承者としての巧拙によってではなく、ヘシオドス個人の主張として批判の俎上にのせられること意味している。
ヘシオドス自身の語るところによれば、彼の父は小アジア北岸のアイオリスの船乗りであったが、海を渡ってギリシャ本土に行き、ヘリコーン山麓のアスクラ村に住み着いた。そこで羊飼いをしていた少年(ヘシオドス)が、詩神ムーサに詩の霊感を授けられて詩人として立つことを決意し、「ホメーロス流の真実に似た虚言ではなく、真実そのものを語る、と宣言するのである」(松平千秋訳「仕事と日」の解説より)。冒頭に詩の意図を述べることはそれまでになかった行き方であり、「真実を強く主張する自信は、詩人自身の深刻な目覚めを契機として生まれたものであろう」(久保正彰『ヘシオドス』「西洋哲学の基礎知識」)。
個人の思想信条の表現が始まったという意味で、ヘシオドス以前と以後では根本的な相違が生まれた。ヘシオドスはホメーロス同様、紀元前800年頃の人としかわからないが、ヘシオドスが先鞭をつけた「自己の思想信条の表現」を引き継いだのが、前6世紀の抒情詩人や悲劇詩人たちであった。抒情詩人と呼ばれるようになった人たちは、叙事詩とは異なる形式で詩人自身の思いや立場を歌い始める。舞台における合唱抒情詩の朗読に俳優を加えて前6世紀に誕生したとされるギリシャ悲劇は、豊かな神話の物語から自由に題材を得て、政治とは、国家とは、人間とは、という根源の問をめぐって作品を競った。その根源的な問の中から学問や哲学が誕生し、神話と伝承に依存する知識から、科学による探求への道を歩みだしたのであった。
ヘシオドスは「仕事と日々」の中で、一度だけ海を渡り、エウボイア島のカルキスの歌くらべに参加して優勝し、賞品として獲得した三脚釜を村の詩神ムーサに奉納したと書いている。ヘシオドスは吟唱詩人としてあちこち旅をしたに違いないが、旅への言及はこれだけである。これだけではあるが、多分これが生身の人間が自分自身の旅に言及した最初の例であろう。
また、ヘシオドスは船旅のあり方について説明しており、ギリシャという国が海洋国家であり、船による旅の安全性や航海の方法の知識が欠かせないことを書き記していることにも言及しておきたい。
学者たちの旅 ギリシャでは、神話とは世界の起源・生成・構造を語り、自然現象や社会現象を神々の系譜や擬人化によって説明するものであった。ギリシャ人たちは、超自然的な神への想いや呪術的な信仰は薄かったから、神話や伝承による諸現象の理解から離れて論理的な思考を追求し始めたとき、まず自然界の経験的事象を当時の知識によって可能な限り合理的に説明をしようと試みた。その最初の人がターレスであった。ターレスは前7世紀の後半にエーゲ海のトルコ側ミレトスに生まれた。分別のつく頃になると船に乗り、エジプトや中東への長旅に出かけ、エジプトやカルデアの聖職者から天文学、数学、航海術などについて、当時わかっている最新の知識を学んだという。ターレスは「万物のもとは水である」と言ったと伝えられ、紀元前585年の日蝕を予言した話も有名である。水をすべての元としたのは、彼がエジプトやメソポタミヤへの遍歴で、大河の恵みが文明を生んだことを知っていたからであろうといわれる。日蝕については、日蝕の現象を理解はしても、複雑な計算を要する先の予言はまぐれ当たりであろうと言われたりするが、ルチアーノ・デ・クレシェンツォが言っているように、彼が哲学の祖とされるのは、「問題に答えを見出したからではなく、問題そのものを提起したからである。あらゆる神秘の解決をもはや神に帰することを止めて、自分の周囲を観察し、精一杯熟考することこそ宇宙の解釈へ向けての思考が歩み出すスタートであった」(「ソクラテス以前の哲学者たち」)。
ターレス自身は書いた物を何も残していない。したがって、彼の旅の記録もない。しかし、かくして誕生した多くの自然哲学者や彼らに続く哲学の徒は非常に多くの旅をした。ターレスに続くアナクシマンドロス(前610年頃~前546年頃)は、最初に地図を作成した人として知られることからもわかるとおり、しょっちゅう旅行しており、クセノファネスは67年間ずっと世界を遍歴したと吹聴している。また、デモクリトスは当時の誰よりも数多く未踏査の民族や地方を見たと自慢している(「ソクラテス以前の哲学者たち」)。ピタゴラスもエジプトやバビロニアを旅行し、理想国家の建設を夢見て南イタリアのクロトンに移住するなど、その行動半径は広範囲に亘っている。
ギリシャの哲学者アリストテレス(前384~前322)は、ヘシオドスや悲劇詩人たちを「神々を語る人々」と呼び、これに対比してターレスたちイオニアの自然学者たちを「自然を語る人々」と呼んだ。そして、ソクラテス以後の哲学者は「人間と社会を語る人々」であるというわけである。ローマ時代の伝記作家ディオゲネス・ラーエルティオスの「ギリシャ哲学者列伝」などによれば、労働は奴隷たちに任せ、自由時間と財産を思うように使ったギリシャの学問好きたちは、ギリシャ国内からエジプト、メソポタミヤ、黒海から地中海西部まで自由に旅をした。探究心の強い人々なら、旅に出るのが当たり前の時代になったのである。しかし、旅はあくまで手段であり、旅自体の具体的な内容を書き残した人はまだいなかった。
そうした中で、旅そのものを目的とし、自分の行った旅先と旅で見たもの、知ったことを詳しく書き残した最初の人がヘロドトス(前485頃~425頃)であった。このことは、言葉を変えれば書物の誕生であり、読者の誕生でもあった。ライオネル・カッソン著(新海邦冶訳)「図書館の誕生」によれば、前5世紀に入って間もない頃、哲学者であるエペソスのヘラクレイトスや、歴史・地理学者であったミレトスのヘカタイオスのような人々が、自らの著作を朗読するだけでなく書き物にもしたという。つまりこの時期には「読書する人」も誕生しており、ホメーロスはもちろん、人々に親しまれた作品や散文が読める時代になってきたことを意味している。
ヘロドトスは元祖トラベルライター 観光史に登場してもらう人物としてギリシャ時代を代表するにふさわしい人を1人だけ挙げるとすれば「歴史の父」ヘロドトスである。ヘロドトスは紀元前5世紀の人で、当時一般のギリシャ人には知られていなかった黒海北岸から小アジア(現在のトルコ)一体、メソポタミヤから北アフリカなどを広く旅し、「ヒストリア」(歴史)と題する物語を残した。ヒストリアとはギリシャ語で「探求」を意味するそうだが、物語(ストーリイ)と同義でも使用されるとおり、ヘロドトスの「歴史」は、のちのトゥキディデスの「歴史」が実証を重んじたのとは違い、旅において彼が広く見聞した各地の伝承、風土や習俗の記録など、読者に面白く読んでもらう物語としての要素を多分に持っていた。彼はいわば、史上初の歴史と地誌のルポルタージュ記者でもあり、クリストファー・ハロウェイは彼のことを人類初のトラベルライターと呼んでいる。理由は、ヘロドトスが明確に同時代人や後世の人に伝える目的で旅をし、調査し、それによって得た知識を書き残したからである。藤縄謙三著「歴史の父ヘロドトス」は、ヘロドトスの「歴史」の内容を再整理して項目別に解説した労作であるが、その第1部「総説」の第6章「旅行と地理学」はヘロドトスの旅の目的、旅の仕方から、旅の内容にわたって詳細に分析している。ヘロドトスは後世に古典ギリシャ時代の世界の状況を伝え残してくれた歴史家であると同時に、後世の観光目的の旅行者が必要とする旅行情報を伝えた元祖トラベルライターでもあったのである。
再度強調しておきたいのは、ヘロドトス以前の学者や詩人たちにとって、作品は読み聞かせるのが主であって、朗読のための原稿は書いたとしても、それを読ませるものとして保存することに気を配らなかった。ターレスやソクラテスに書き残したものが伝わっていないのはそのためである。ヘロドトスの「歴史」はその作品の長さからみて、催しなどで一部を朗読することはあったにせよ、聞き手ではなく《読み手》を意識した最初の作品、読み物として書かれた「最初の書物」という記念碑的な作品であった。ヘロドトスが旅を通じて書き残した膨大な記録が、のちの歴史研究に大なる貢献を果たしたことは、いくら高く評価しても過ぎることはない。
神々の祭典と競技会
個人による旅への最古の言及がヘシオドスによる吟唱競技会への参加の旅であったことはすでに述べた。よく知られているように、前776年に運動の競技会としてのオリンピック大会が始まっているが、古代ギリシャでは運動だけでなく早くから音楽や叙事詩の朗読、詩作などの能力を競い合い、6世紀末以降は悲劇、喜劇などの演劇も、各ポリスの巨大な劇場で作品を競ったのであった。これらの競技会には作品を競う参加者はもちろん、数少ない娯楽の機会として観衆が大劇場を埋めたが、中には遠方からの旅人も多かった。これらの競技会の内容は、オリュンピアの運動競技会(各大会の諸競技の勝者の記録がある)のほかあまり残っていないが、アテナイの春のディオニソス大祭では悲劇詩人たちの競演が何日も続き、無数の悲劇作品が上演された(参加者は1人3作品を提出する義務があった)。無数に演じられた悲劇の中から今日まで残ったのは、アイスキュロス(前525~456)の7作品、ソフォクレス(前496~406)の7作品と、ユーリピデス(前485~406)の12作品のみであるが、その質の高さは古典ギリシャ文学の金字塔として輝いている。
村川堅太郎編「ヘロドトス・トゥキュディデス」の解説によれば、ヘロドトスもオリュンピアの祭典で自作を朗読し、聴いていた少年トゥキュディデスが感涙するのを見て、その父親にトゥキュディデスに学問の資質を認めて褒め称えたという古伝が残っている。村川はよくできた作り話であろう(時期的には可能)と言っているが、ギリシャ文化全盛期の前5世紀~前4世紀、ギリシャの人々にとって運動競技会や、詩の朗読、演劇の競演などを参観することは大きな楽しみであり、これらを鑑賞する旅を自由に行っていたことが知られるのである。
古代オリンピック大会 ギリシャ時代にあって、観光との関連で特筆すべきことのひとつがBC776年という早い時期に始まったオリンピック競技大会である。というよりも、この年は特定しうる最古の年なのである。オリンピア競技会は正確に4年に1度開催され、その間の期間をオリンピアードと呼ぶが、はっきりした暦がなかった当時のギリシャでは、この年を基点とする年号の数え方があり、第O回オリンピアードの第O年というように数えられたという。前4世紀のエリス人ヒッピアスが作成した競技会の歴代勝利者のリストによれば、前8世紀の勝利者のほとんどがペロポネソス半島西部の出身者であったのに対し、前7世紀には全ギリシャに広がっており、この時期にはすでにオリンピアが全ギリシャ的な神域になっていたことが窺われる。
オリンピアはペロポネソス半島西部の小国エリスにあるが、ここはアルフェイオス川とクラディオス川の合流地点にあって、この地域の交通路の要の場所に位置していた。ゼウスの神域に飾られた奉納品は、この交通路を利用する人々の目を惹き、ステータスを誇示したいという奉献者の願望が充分報われる場所であった。小国エリスがゼウス神域の管理も祭典の主催も任され、大国のエゴに左右されなかったことが長く繁栄が続いた理由であるという。最盛期の前5~4世紀には、ギリシャ全土はもちろん、黒海沿岸から地中海西部に広がっていた植民地からも選手が集まってきていた。
ギリシャは全体を統括する国家を持たず、ポリスという都市国家単位で絶えず戦争を繰り返していた中で、オリンピック開催期間中だけは戦争を中断したばかりか、選手はもとより観戦に出かける旅行者の道中の安全も保証したという。今風にいえば、スポーツ・ツーリズムの原点を見ることができるばかりか、後世の「観光は平和へのパスポート」という標語が志向する親善や相互理解の精神をアピールしているようにさえ思われる。人々はオリンピアの祭礼への参加が名目であるにせよ、そこで行われるスポーツ競技を楽しむために遠距離の旅をした。それだけギリシャ時代に旅行が普及していたことを示すものである。さらにいえば、人を集め、人を楽しませるイベント・ツーリズムの発想もギリシャ時代に始まったといっていいのかもしれない。
オリンピック大会では、陸上競技とレスリングとボクシングが行われたほか、最終日には戦車競争がハイライトして行われた(マラソンは第1回近代オリンピック・アテネ大会で、フランスの言語学者ミシェル・ブレアルの提案で行われるようになった)。戦車競争は戦車を所有する金持階級しか参加できなかったから、とくに多くの有名人が競技に参加した。ソクラテスと同時代のアテネのアルキビアデスが優勝し凱旋将軍のように迎えられたという記録が残っているし、ローマ支配の時代に入ってからは、ローマのティベリウス帝がわざわざオリンピアにやってきて戦車競争に参加したという。少なくともキリスト教が国教化する以前のローマでも、オリンピックの人気は高かった。皇帝ネロは、ローマにも肉体訓練の成果を競う催しがあってしかるべきと考え、オリンピアとは別に、5年に一度ローマでも競技会を開催することを決め、実際に紀元6年に大会を開催している。ネロのオリンピックはローマン・オリンピックと呼ばれ、体育だけでなく音楽や美術も競わせ、自らも参加したことはよく知られている。ネロの始めたローマン・オリンピックは5年後にもう一度開催されたが、ネロの死によって立ち消えになり、やがてオリンピックの記録から抹消された。
なお、紀元372年、テオドシウス帝によってキリスト教がローマ帝国唯一の宗教と定められ、ギリシャ・ローマの神々を異端としたため、オリンポスの神々に捧げるオリンピアの祭典は、紀元373年の大会を最後に禁止されて使命を終えた。それに、そもそも全裸で肉体の美しさや能力を競う行為は、キリスト教の教義と相容れないものだったのである。
兵士たちの旅
戦争は最大の非日常である。小国家が成立し、大きな国家に統一される過程で様々な規模やレベルの戦争を繰り返してきた。戦争は社会を変え、人々の暮らしを動揺させる最大の出来事であるから、古来伝承物語は常に戦争と英雄の物語でもあった。ひとたび戦争が始まれば何千人、何万人という大量の人の長距離移動が発生し、多くの人たちが倒れ、勝者は略奪し、敗者は奴隷にされた。幸いに生き残って故郷の土を踏めた人々は、土産品を持ち帰り、未知の国の人々やその暮らしについて語り明かしたことであろう。
しかし、「一将功なって万骨枯る」と言われるように、戦争の物語は王や名のある将たちの英雄物語であって、無名の兵士たちが戦争で何をし、何を思ったかというような記録はほとんど残っていない。交易や公務や学問の旅とはちがい、無名の庶民が生活圏を遠く離れて旅をするとすれば、戦争に駆り出されるか、傭兵になって戦争に行く以外に可能性はなかった。戦争に行けば命の保証はなく、高い確率で死ぬことを覚悟しなければならない。それでも生きて帰ってくれば、名誉や知識や財産を得て帰郷し、英雄扱いされた者も多かったであろう。
アナバシス:敵中横断6000里 古代にあって、無名の戦士たちの声をわずかながら歴史に残した例といえば、ギリシャの軍人にして歴史家クセノフォン(前430年頃~前354)が書き残した傭兵たちの帰国物語「アナバシス」であろうか。ペルシャのダレイオス2世(在位前424~405)が亡くなり、長子のアルタクセルクセス2世が後を継いだが、次男の小キュロスがクーデタを計画し、1万人のギリシャ人傭兵を目的を知らせないままサルデス(小アジア西部のペルシャの拠点都市)に集め、クセノフォンもその1人として参加した。前401年春キュロスは反乱を決行し、サルデスを発進する。長駆小アジア(現トルコ)を横断し、イッソス(地中海の東北端)を経て、ユーフラテス川をバビロン(現イラク中部)まで下る。しかし、キュロスはペルシャ貴族らの支持が得られずクーデタは失敗し、バビロン付近のクナクサの戦いで本人が戦死してしまう。
雇い主を失い目的が無くなったギリシャ人傭兵たちは、やむなく撤収作戦にかかるが、アルタクセルクセス側の謀略にかかって主だった指揮官のほとんどが捉えられ、全滅の危機に陥った。このとき軍を絶望の淵から救ったのが、それまでは一従軍者に過ぎなかったクセノフォンであった。クセノフォンの提案で新たな指揮官と隊長らを選出し、総指揮官になったケイリソポスをクセノフォンが補佐する新体制を作り上げた。そのあとはペロポネソス戦争での従軍経験が豊富だったクセノフォンが腕を振るった。ペルシャの内陸深くにあって食糧にもこと欠き、地理にも不案内で苦しみながらもチグリス川を北上し、アルメニアの山中を抜けて黒海へ辿りつく。黒海から西への旅も苦難続きだったが、クセノフォンの指導で船も利用し、ついにトラキア(ギリシャの北部)までたどり着く。生き残った5000人の傭兵は、改めてペルシャとの対決に踏み切ったスパルタの傭兵として迎えられて物語は終わる。
この傭兵たちの脱出行を描いたのが「アナバシス」(訳書には『敵中横断6000里』の副題がある)である。アナバシスとは「上り」という意味であり、傭兵に応募してバビロン付近まで下ってきて、そこで目的を失って再び故郷ギリシャへ向かって上って行く物語というわけである。「アナバシス」は当事者のクセノフォンが書いたものであり、旅の記録という意味では稀有の物語である。英雄の物語でもなく、戦闘が主題の物語でもなく、目的を失った1万人もの傭兵たちが《民主的》にリーダーを選び、様々な難関を切り抜けていく話自体が大変面白いし、彼らが通過する各地の風土、様々な民族の習俗などの記述も興味深い。
では、この「アナバシス」に登場する傭兵とはどのような人たちであったのか。当時ギリシャの傭兵は強いことで有名であり、様々な戦闘に参加する人たちが多かった。「アナバシス」(松平千秋訳)第6巻第4章には次のように書かれている。
兵士たちの大部分は、生活に窮したために海を渡ってまで傭兵稼業に乗り出したわけではなく、キュロスの徳望を噂に聞いて、ある者は他の人間を誘って帯同するし、また自腹を切ってまでこの挙に加わったものもいた。その中には父母の許を去ったもの、子を後に残してきたものもいた。キュロスに仕えた者たちがさまざまな厚遇を受けた噂を聞いていたからで、父母や子のために金を稼いで帰るつもりであった。こういう者たちであったから、どうしても無事にギリシャへ帰りたい気持ちが強かったのである。
また、第4巻第7章には、ようやく危地を脱して黒海を見た傭兵たちの様子が次のように描かれる。
兵士たちが、「海だ、海だ」と叫びながら、順々にそれを言い送っている声が聞こえてきた。とたんに後衛部隊も全員が駆け出し、荷を負った獣も走り馬も走った。全員が頂上に着くと、兵士たちは泣きながら互いに抱き合い、指揮官にも隊長にも抱きついた。
このようなシーンが描かれたのは、傭兵だけの軍隊という目的のない集団の帰国を扱った物語で、戦争目的の行軍ではなかったからであろう。
第3章 アレクサンドロス大王とヘレニズム時代
ギリシャは、北隣の小国マケドニアの王フィリッポス2世の侵略戦に敗れ、政治権力としては歴史の表舞台から退場する。フィリッポス2世は後進国に過ぎなかったマケドニアを、財政を整備し、軍政を改革し、農民・遊牧民による長槍歩兵部隊を創設して強国に仕立て、前338年カイロネイアの戦いでギリシャ連合軍を撃破した。フィリッポス2世は才能豊かで名君といわれたが、2年後の前336年、ペルシャ遠征を実行に移す直前に、婚礼の席で親衛隊長によって47歳の若さで暗殺されてしまう。弱冠20歳で後を継いだアレクサンドロス3世は父王の意志を継いで前334年にマルマラ海を越えてペルシャに攻め込み、10年の歳月をかけてオリエントからエジプト、そしてペルシャからインドへと大遠征を行った。アレクサンドロスは、インダス河流域までを支配下に収めた後、新しい首都と決めたバビロン(現イラク中部にあった古都)に帰着したところで、前322年、32歳の若さで急死した。
独裁的な大王アレクサンドロスが残したヨーロッパからアジアにおよぶ広大な領土は、後継者が一つの帝国としてまとめて統治することは不可能であった。20歳を過ぎて間もなく遠征に出たアレクサンドロスにははっきりした後継者がなかった。突然の死の後、大王が残した巨大な空間は、遠征に従った有力な将軍たちの激しい後継争いのあと、エジプトとフェニキアからパレスチナに至る東地中海岸地方は305年に盟友プトレマイオスの、シリア・メソポタミヤ・アルメニア・イランは301年にセレウコスの領有と決まり、マケドニアとギリシャは、しばらく混乱が続いた後アンティゴノス・ゴナタスが王位につき、主要3王国の分立体制となった。この巨大な空間に生起した文化はギリシャ(ヘラス)の影響を強く受けた文化であると言う意味で「ヘレニズム文化」と呼ばれ、また、その空間において展開した歴史過程はヘレニズム時代と呼ばれる。具体的にはアレクサンドロスの死(前323年)から、この空間がローマに征服される前30年頃までの約300年間がヘレニズム時代、言い換えればギリシャからローマへと移行する時代であった。
アレクサンドロス大王東征記
20歳にしてマケドニアの王となったアレクサンドロスは、国内とギリシャで起こった反乱を鎮圧し、前334年父王がやり残したペルシャ遠征の実行に取り掛かる。アレクサンドロスの東征に従ったのは、マケドニアの騎兵1800と3万人から4万人ほどの歩兵に加え、ギリシャの各ポリスから出させたおよそ600の騎兵と7000人の歩兵だった。アレクサンドロスの東征は、征服した地域の広大さとそのスピードにおいて空前絶後のものであった。しかも、この大遠征の内容は、従軍した将兵によって詳細な記録が残された。のちの時代の歴史家がそれらに基づいて彼の事跡を整理しておいてくれたおかげで、われわれは彼の遠征の記録や、当時の古代オリエントやペルシャ、インドにいたる地誌的な記録まで目にすることができるのである。
軍事遠征と探検 アレクサンドロスの東征が興味深いのは、ペルシャ征服のための軍事遠征であると同時に、世界の未知に立ち向う「探検的遠征」でもあった点である。アレクサンドロスは、周知のようにアリストテレスについて学び、自ら学問好きであっただけでなく、ペルシャ征服戦にアリストテレスの甥のカリステネスや、アリストテレスの弟子として幼少期から共に学んだ親友プトレマイオス、父フィリッポス2世の要請に応じたクレタ出身のネアルコス等の優秀な人材を従軍させた。彼らが遠征の途次アジアの地理学・地誌学的調査を行い、多くの記録を残したのである。アレクサンドロスは、知られる限りで戦争に学問のための調査研究者を伴った最初の王であり、征服地の統治に当たっても、被征服諸民族の文化を尊重し、融和を図り、現地の住民たちにも尊敬される王となり得たのであった。
アレクサンドロスの偉業は、その死の直後から従軍した有名無名の側近者たちの手になるもの、あるいは生還した従軍者等から聞いた話を織り込む形で様々な内容形式の記録が書かれていた。アリアノス著(大牟田章訳)「アレクサンドロス大王東征記」の訳者解説によれば、そうした著作者達、いわゆる「アレクサンドロス史家」の数は40名に及んでいたという。これらに基づいて二百年から四百年後にかけてギリシャやローマの学者たちが様々な戦記や伝記を作り上げた。そうした中で今日まで残っているのは、アリアノス、プルタルコス、クルティウス・ルフス、ストラボンの4種であり、それらの元になったプトレマイオスやネアルコスその他の同時代人による記録はすべて失われてしまった。現存する記録の中では、紀元2世紀の人アリアノス(生没年は不祥)の「アレクサンドロス大王東征記」(7巻)が最も史実に近いものとされている。アリアノス自身が多くの資料を渉猟したうえで、プトレマイオスの記録を中心に集大成したものであると書いており、征服戦争と英雄の物語であると同時に、これ自体が長大で詳細な旅行記であった。
アレクサンドロスは小アジアからフェニキア、イスラエルなど地中海東岸を征服し、さらに下ってエジプトを支配下に収めると、一転して逃げるダレイオス3世を追ってペルシャ最東部の北部インドまでを制圧した。インダス河を無血渡河したあと、さらにガンジス河を目指そうとしたところで将兵の反対にあって断念する。引き返す決断をした後、艦隊を編成してインダス河を河口まで下り、自身は陸路スーサを経てバビロンへと帰還した。アリアノスの「アレクサンドロス大王東征記」は、遠征の行程を追って各地の風物などを描写しているが、とくにインドについては詳しく記し、第5巻と第6巻で、インダス河を下って河口に至る行程や、インダス河口から本隊と別れたネアルコスの別働隊のインド洋航海についても記述している。
アリアノスの「インド誌」 上述のように「東征記」本体にもインドの様々な地誌的な記録や観察が書かれているが、著者アリアノスは、インドについては別途「インド誌」としてまとめる意図を本文中に示しており、実際に最後の第7巻の付属書として「インド誌」が加えられている。アリアノスはアレクサンドロスの遠征から400年後の紀元2世紀の人で、ローマの小アジアの属州ビチュニア(マルマラ海の対岸)生まれのギリシャ人である。ハドリアヌス帝の信任が厚く、紀元130年代にはカッパドキア総督として数年を過ごし、自ら黒海方面に視察旅行を行って「黒海就航記」なる書物を残している。その内容は今日の古代研究からみても立派なものであるという。「アレクサンドロス大王東征記」自体はローマ時代の作品だが、失われてしまったとはいえ、遠征に随行した人々の記録に基づいて執筆されたものであるから、アレクサンドロスとその随行者が未知の国々の探査を意識的に行っていた証しとしてここで取り上げておく。
「インド誌」は2部に分かれ、第1部「インドの自然と社会」、第2部「ネアルコスの沿岸航海」となっている。アリアノスの時代にはまだインドは良く知られていなかったので、アリアノスには「アレクサンドロス大王東征記」を執筆するにあたって、別個にインドに関する情報を纏めようとの意図があったらしい。しかし、自分独自のインド誌をまとめるにはあまりにもインドは複雑で、結果として第1部はアレクサンドロスの従軍者たちが書き残した記述に加え、その四半世紀ほど後にシリアのセレウコス1世の使節として成立直後のマウリア朝インドに派遣されたメガステネスの10年に及ぶインド滞在中の見聞録、それに、地理学者エラトステネスの膨大な著作から適宜まとめ、それらの著作者の意見・知識として記述するにとどめている。他方、第2部は、反転後にインダス河を下るところから艦隊の指揮を任されたネアルコスの河口までの航海の記録と、本隊から離れてインダス河口からインド洋沿岸を辿ってペルシャ湾に入り、ユーフラテスの河口に至るネアルコスの探検航海をあわせて紹介している。こちらの方は探検航海を実際に指揮した人物の手になる記録に基づいているだけに、生き生きとした描写になっている。いずれにしても、ネアルコスの探検航海はアレクサンドロスの遠征が未知の国々の調査を兼ねていたことの証しであり、ヨーロッパ側からインド洋の航路を調査した最初の試みでもあった。
アレクサンドロス大王を引き返させた将兵の抵抗 先に無名の将兵たちを主人公にした物語「アナバシス」を紹介したが、「アレクサンドロス大王東征記」も従軍した兵士たちの苦しみを垣間見させる数少ない事例の一つである。アレクサンドロ大王がインダス川を越えてさらにガンジス川にまで進もうと進軍を命じたのに対し、疲れ果てた兵士たちはこれ以上進軍することを拒否し、大王もやむを得ず引き返したという有名な史実である。ギリシャから付き従ってきた5万人に及ぶ将兵たちのうち生き残っていたのはわずかに334名に過ぎなかったと伝えられ、当時の軍のほとんどは進軍の途中で集められた将兵であった。
アレクサンドロスが、世界の果てのガンジス川までもう一息というところで引き返してはこれまでの艱難辛苦を無にすることになると懸命に説得するのに、しばらくは賛成の声も反論の声もなく過ぎる。何でも自由に意見を述べよと促すアレクサンドロスに、ついにコイノス(側近の将の1人)が勇気をふるって声を上げる。一般の将兵より擢んでて名誉の処遇を受け、艱難辛苦の褒賞もすでに大部分の者が手にしている私ども指揮官位階の者のために言うのではなく、軍の大多数を占める兵たちのためにする発言です、と前置きして言う。
大方の者は病を得て死に、多数の将兵のうち今ではほんのわずかな数しか生き残っていません。その彼らにしても体力の点では、もはやかつてのように強健ではありませんし、気力的にはもっと疲れ果てております。そうした彼らの皆が皆、両親が幸いにして健在であれば両親のことを、また妻や子たちのことを想いこがれ、あるいは自分たちの故郷そのものにひたすら憧れているのです。彼らが貴方からそれぞれに分ち与えられた誉れを誇らしくにない、もはや卑賤貧乏の身ではなく、著名裕福な人間として郷党に会い見えたいという切なる願いをいだいているとしても、それはまことにむりからぬことでありましょう。(第5巻27)
その場に居合わせた者たちに涙さえもよおさせたコイノスの声涙ともに下る具申に対して、大王はすっかり腹を立てて散会を命じ、翌日再び同じ顔ぶれを集めて、「帰りたいものは帰れ、帰って自分たちの王を敵中に置き去りにしてきたと言うがよい」と言い放った。その日から4日間、大王は人を寄せつけずに部下の翻意を待つが、将兵は無言を続ける。ついに大王も諦めて撤退を決意し全軍に通知する。「将兵たちは、雑多な群集の歓呼にも似た歓声を挙げ、大方の者は涙を流した。彼らの一部は王の幕舎の近くに馳せ寄ると、アレクサンドロスのために幸多かれと祝福の祈りをささげたりもした」(第5巻29)。
古代社会の名もない兵士らの想いが語られた数少ない例のひとつである。その意味では、日本の古代史で、九州沿岸の警備のために東北地方から集められた無名の防人たちの歌が、大友家持の努力によって万葉集に100首以上も残されているのは稀有の例といってよいであろう。
ヘレニズム文化:アレクサンドロスが残したもの
ギリシャは最盛期を通じ、人類全体に学問・芸術の分野で多くの優れた遺産をもたらした。また、政治的軍事的権力を喪失したのちも、ヘレニズム時代やローマ時代を通じて、ギリシャ人は古代の学問や芸術の世界で中心的な役割を果たし続けていく。ギリシャ人は誇り高い。寒いヨーロッパは気候のせいで気概には富むが思慮に欠け、暑いアジアは気概に欠けるが思慮深いとし、中間にあるギリシャは双方の長所を併せ持つ民族であるとギリシャに誇りを抱いている(アリストテレスの「政治学」の中の言葉)。事実、ギリシャは黒海沿岸から地中海域に多くの植民都市を築いたが、植民地の内陸部に住む者たちとの接触を深めようとはしなかった。それぞれがばらばらのまま本国との関係を重要視していたからである。
マケドニアは、アレクサンドロス1世(前485~40頃)の時代からすでにオリンピア競技会に参加を許されていた。このことは、マケドニアがギリシャの同族であることをギリシャ側も認めていたことを意味し、アレクサンドロス3世のギリシャ制圧後、外部ではギリシャとマケドニアは一体と考えられていた。しかし、アレクサンドロス自身はバビロンに首都を置いたことでも想像できるように、アジアの王を自覚し、アジア民族との融和に配慮し、今風に言えば国際性、コスモポリタニズムを志向した世界初の指導者であった。
彼の死後に誕生したヘレニズム諸国家では、ギリシャ人とマケドニア人が支配階層を形成したが、それ以前のエジプト文明、メソポタミヤ文明を引き継いできた国々の垣根をいったん取り払い、東部地中海一帯からシリアに至る前例のないコスモポリタン的な空間を現出させたのであった。
知の遺産の保存 石や土で出来た文化遺産は戦火や火災にもかかわらず、意図せずに残されたものが多いが、それらが何のために、誰により、どのように造られたのかという記録なしには鑑賞できない。埋もれたままだった遺跡や記録の発掘調査が始まるのは18世紀以降であるが、後代のわれわれは、観光を通じてこれらの知の集積の大なる恩恵を受けている。先人達が残した文化遺産は最大の恵みであると同時に、それらの遺産を発掘し、保存し、管理し、研究して来た人たちへの感謝の気持ちを覚えずにはいられない。それゆえ、ここで観光行動の対象となる人類の文化遺産に係わる記録の保存というテーマについて少し振り返ってみよう。
文明はメソポタミヤとエジプトで誕生した。メソポタミヤでは、紀元前3000年より少し前のものとされる粘土板の記録がシュメール人の遺跡の中から発見されているが、エジプトについては書き物による記録で歴史を辿ることができない。理由は、エジプトではナイル河畔に生い茂るパピルス草から作られた紙が記録用に用いられ、筆写材としての質は優れるが火にも水にも弱く、後世に残ることが少なかったからである。これに対し、メソポタミヤでは、粘土板に楔形文字を刻むことによって記録した。粘土板は火に強く、戦火にあってもパピルスや羊皮紙のように焼失することがなく、むしろ焼き固まって残ったものが多い。
ライオネル・カッソン著(新海邦治訳)「図書館の誕生:古代オリエントからローマへ」は、話し言葉から書き言葉へ、書物の誕生と収蔵、学校の誕生、写本の作成、書籍商の誕生、そして公共図書館へと進む歴史を教えてくれる。西アジア諸国家の王宮では、粘土板に書かれた資料を棚に並べ、見やすいように目録を作っており、これらが図書館の先駆であるという。前7世紀のアッシリアのアッシュルバニパル王(在位前668~627)は、楔形文字を自ら読みかつ書ける知的な王として巨大な図書館を所有していた。内容は征服地の王宮図書館から奪ったものが多く、ギルガメシュ叙事詩を記した粘土板を多く出土したのがこの図書館であった。
ギリシャ人はパピルスのシートに、鵞ペンに油煙でといたインクをつけて文字を書き、1枚1枚のシートをわずかな重なりをもたせて糊付けし長い巻物にした。長さは内容によってまちまちで、オデュッセイアが24巻の作品であるということは、この巻物が24本あったということである。ギリシャ時代のアテナイには、プラトンがアカデメイアを、アリストテレスがリュケイオンを、教育と研究の機関として設置し図書をも収蔵していた。しかし、彼らは主として弟子たちとの対話によって知識や思想を伝達するやり方を採っており、私塾であって図書館の規模は小さかった。それでもアリストテレスは書物を重視し、自身で集められるだけの書物を集めて研究の基盤にしようとしており、その思想は後述のとおり弟子のプトレマイオスに受け継がれていく。かくて、ギリシャ時代に本格的に作成され始めた書物を、公共のものとして国家が保存し公開する最初の施設がアレクサンドリア図書館であった。
アレクサンドリア建設 マケドニア王フィリッポス2世は、息子アレクサンドロス3世のためにアリストテレスを家庭教師として招き、貴族の子弟とともに学ばせた。その仲間の1人がプトレマイオスであった。アレクサンドロスは読書好きで、遠征へも大量の書物を持参し、足りなくなると本国から取り寄せたという。また、師の研究のために、征服先の珍しい動植物や、猟師や農民が使う道具類などをアリストテレスに送ったという。幼少の頃からアレクサンドロスとともにアリストレスに学んだプトレマイオスは、アレクサンドロスの急死の直後からエジプト領有を目指していた。小アジアからメソポタミヤ、イランにいたる広大な地域は、絶えず抗争を繰り返す不安定な地域であるのに対し、エジプトは地政学的に独立した空間を形成し、ナイルの恵みである豊かな小麦があり、ここにこそ安定した国家を築けると考えたからであった。
アレクサンドロスはマケドニアを出て小アジアを征服すると、レヴァント地域を攻め下ってエジプトを制圧した。エジプトでは、それまで寒村地帯に過ぎなかったナイル川のデルタ地帯の西側にあるファロス島に目を付けた。そして、東地中海支配の拠点としてここに新しい都市を建設することを命じてペルシャ王追討に出かけて行った。ギリシャの伝記作家プルタルコスによると、アレクサンドロスはホメーロスを読んで最初からこの地に惹かれていたという。ファロス島はオデュッセイア第4巻に次のように登場している。
さて、エジプトの先、穏やかながらしっかりした風を受ければ、
船で1日ほどで着くところにファロスという島がある
そこには良港があり、大きな船も水に浮かびさえすれば
開けた海に出ることが出来る
トロイア戦争の時代といえば前12~13世紀頃であり、エジプトはツタンカーメンやラムセス2世の時代であった。当時ファロス島はナイルのデルタの泥が流れ込まない唯一の港としてクレタ島との交易に大いに役立っていたらしいが、いつの間にか寂れてアレクサンドロスの時代には港は海中に沈み、一帯は人のわずかしか住まない寒村になっていた。
プトレマイオスは、アレクサンドロスの遺体を確保し、大王の生前の指示を守ってこの寒村に大王の名を冠した都市アレクサンドリアを建設し、エジプトの首都とした。ギリシャ人支配下の新エジプトの誕生である。アレクサンドリアはやがてヘレニズム時代最大の都市として繁栄を極めることになるが、その力の源泉は軍事力ではなく、地中海最大の交易拠点としてであり、世界初の国営の図書館・博物館や教育研究機関による知性の力であった。
アレクサンドリア図書館 ジャスティン・ポラード&ハワード・リード著(藤井留美訳)「アレクサンドリアの興亡」は、アレクサンドロス3世の死後プトレマイオスがエジプトを確保し、アレクサンドリアを建設して知性の都市を創生していく過程を詳細に描いている。同書によれば、ギリシャ人を新しい王とするプトレマイオス王朝のエジプトは他国への領土的な野心を持たず、図書館やムーサイオン(博物館)や研究施設を建設し、知的財産を集めることを国の大方針とする稀有の国でとなった。プトレマイオス1世は、師のアリストテレスとアレクサンドロス3世という両雄の遺志を受け継ぐ「哲人にして帝王」の体現者として、権力と財力を駆使して可能な限りの書物を収集した。かくして買い集めた書物は50万冊とも70万冊ともいわれる。アレクサンドリア図書館が手に入る限りの書物を集めて研究者に提供するようになったことで、書き言葉が真の威力を発揮するようになり、アレクサンドリアはヘレニズム時代を通じて学術文化の中心となった。また、そうした国の方針が当時の最先端の学者や研究者を大量にひき寄せた。「哲学者や詩人たちが、絶えざる戦争を避けて新しい後援者を求めて都市や国家を渡り歩かなければならなかった時代に、知識を持つ者が必ず庇護される場所を提供したアレクサンドリアは、それ以前には存在しない都市であった」のである(「アレクサンドリアの興亡」)。
共通語としてのギリシャ語 アレクサンドロスは占領した各地にアレクサンドリアという名の都市を造り、ギリシャ人の駐屯軍を残していった。プルタルコスは、アレクサンドリアという名の都市が70を数えたと記しており、都市といえるほどの規模のものも20から30はあったであろうという(「世界の歴史」第4巻『オリエント世界の発展』)。それらはギリシャ支配のための点と線に過ぎなかったが、これらの拠点がヘレニズム文化の伝播に力を発揮したことは間違いない。駐屯軍はギリシャ語で連絡を取り合い、支配階層は行政、外交、商業、度量衡などでギリシャ語を使用したから、ヘレニズム期を通じて次第にギリシャ語が共通語として使われるようになっていった。
書物の校訂 ギリシャの著作者たちは数本の巻物からなる自分の書物の1部だけを所有するに過ぎなかったから、その内容を伝えるためには朗読会を催して聴いてもらうしかなかった。やがて積極的に写本が作られるようになり、写本への需要が高まると「書籍商」が誕生する。写本は手作りであるから、誤記や脱落が避けられないだけでなく、意図的な改変を蒙ることも多かった。「図書館の誕生」によれば、最初に写本の違いが公式に問題化したのは、ギリシャ悲劇のテキストであったという。元来、悲劇作品は宗教的祭礼の一環として国家が管理するものであった。アイスキュロス、ソフォクレス、ユーリピデスの作品が、後代の後継者たちの作品よりはるかに優れていると判定され、再演されるようになって、俳優たちが内容を勝手に改変していることが明らかになった。そこでアテネの政治指導であったリュクルゴス(前394~324)は次のような異例の政令を発布している。
悲劇の筆写版を記録保管所に保存すべきこと。そしてポリスの書記官は、その役を演ずる俳優たちに、比較のために読み聴かすべきこと。俳優たちはそのテキストから離れてはならない。
アレクサンドリアの図書館も研究機関もギリシャ語が中心であった。しかし、アレクサンドリア図書館は巨大なハード施設と金にあかせて集めた大量の書物を有しただけでなく、収集したエジプト語、ペルシャ語、シリア語、ヘブライ語などの文献を共通語のギリシャ語に翻訳し、どれを正しいテキストにするかを校訂するなど、ソフトの機能をも発揮していた。
その一例として伝えられる逸話が七十人訳聖書と呼ばれる旧約聖書の翻訳と校訂である。プトレマイオス朝は、ペルシャが大量のユダヤ人官僚を採用して事務を委ねていたのに倣い、イスラエルで捉えた10万人ものユダヤ人を連れてきて軍事や行政に活用した。彼らをはじめ、オリエントのギリシャ語世界で働く現地の人々の中には、時とともに母国語が読めないものが増え、ギリシャ語訳を作成する必要に迫られていた。プトレマイオス1世は、ユダヤから72人の学者を招いて、1人ずつに個室を割り当て、相互に相談できなくした上で同じものをいっせいに翻訳させた結果、72日後72人が一字一句違わない訳文を提出したと伝えられている。この話は紀元314~18年頃のギリシャの教会史家の著述に紹介されている話であるが、プトレマイオス1世の時代に生きたアメトリオスなるユダヤ人が書いた記述を忠実に再現して書かれたとされている。本当のこととは考えられないが、アレクサンドリア図書館がギリシャ語でも読めるように、収集した多言語の文献の翻訳に細心の注意を払っていたことを窺わせるには充分である。また、旧約聖書の歴史的文書としての価値を考えれば、そのギリシャ語訳の完成は大きな遺産となった。
ちなみに、1799年、ナポレオンのエジプト遠征時にアレクサンドリアの東北50kmのロゼッタで発見されロゼッタストーンには、神聖文字と民衆文字という2種のエジプト文字と並べて、最下段にギリシャ語が書かれていた。ギリシャ語は読める。同じ内容が書かれているとの想定で、フランスのシャンポリオンがこの石碑からエジプト文字の解読に成功した話は有名である。内容はプトレマイオス5世(在位BC204~181 )を称える文で、前196年の勅令に言及しているところから、この頃の作成と判明している。これもまたヘレニズム時代から近代への貴重な贈物であった。
古代の群像と伝記文学
アレクサンドロスの死後、多くの史家がアレクサンドロスの伝記を書いたことは先述した。1人の人物の生涯や言説を紹介し後代に残す「伝記」は、ギリシャ時代のクセノフォンの「ソクラテスの弁明」など、その前にも無かったわけでないが、アレクサンドロスの事跡と生涯を書き残す作業の中から生まれたといっていい。伝記文学はヘレニズム時代の文化的創造物であり、ギリシャ以降の英雄や学者の群像を後代に残す貴重な土台となった。
膨大な伝記を残したローマ時代(紀元3世紀)のギリシャ人ディオゲネス・ラーエルティオスの「ギリシャ哲学者列伝」(加来彰俊訳)の訳者解説によれば、ヘレニズム時代以来長い伝統になってきた伝記の記述の仕方というものがあるという。そのわかり易い例として、プルタルコス(40?~120以後)が「アレクサンドロス伝」の冒頭で述べている読者への弁明を紹介しているので、その概要を再掲させていただこう。
プルタルコスはアレクサンドロス大王の伝記を書くに当たって、最初に一つの弁明をしている。それは、取り扱うべき業績があまりに多いので、有名なことを全部書いたり、一つ一つのことを精密に述べることはしないで、大部分は要約の形で伝えることとするけれども、読者はそれに文句を言わないでほしい、という断り書きである。それというのも、自分は「歴史」を書くのではなくて「伝記」を書こうとしているのだから、と述べた上で、さらに、有名な業績の中にその人の徳や悪徳が充分に表れているのではなくて、「ちょっとした行動や冗談のほうが、幾万の死者を出した戦闘や大規模な陣立てや都市の包囲よりも、むしろその人の性格を明らかにするからだ」と付け加えているのである。
われわれがギリシャやローマ時代の人物像を知りうるのは、アレクサンドロスの伝記に端を発するヘレニズム時代の伝記文学というジャンルの誕生に負うところが大きいのである。ちなみに、アレクサンドロスはギリシャ人には同民族の英雄として好意的に描かれているが、勃興記のローマ人の見たアレクサンドロス像は、まずローマを脅かすかもしれぬ東方の脅威とみなされ、ローマが強国となった共和制末期には、独裁の危険への警鐘をこめて暴君のイメージを強調する伝記作家たちも出ていたという。アリアノスの「東征記」は、そうした恣意的に歪められた可能性ある人物像を避けて、最も信頼度の高いとされるプトレマイオスの記録を発掘してこれに基づいて執筆したことで、正当な伝記と認められたのであった。
ついでながら、征服されたアジア側でのアレクサンドロス像はむしろ良好で、山中由里子著「アレクサンドロス変相:古代から中世イスラムへ」は、アレクサンドロスが「クルアーン(コーラン)」にもとりあげられ、イスラム社会で神聖化されていることを証明している。イスラム諸国の人たちの名前にアレクサンドロスのイスラム名とされる「イスカンダール」が多いことに意外な感じを抱いた記憶があるが、このことをみても、たった一度の遠征でアレクサンドロスという英雄が残した印象の強烈さが窺い知れると言っていいだろう。
ヘレニズム時代からローマへ
ヘレニズム3王国のうち、アレクサンドロス大王の本国を受け継いだマケドニアはギリシャを支配する強国であったが、ギリシャ人は事あるごとに支配者に抵抗し、争いの種は尽きなかった。アナトリア(現トルコ)からシリア、イランに至る広大な領域を支配したセレウコスの王国は、シリアとアラビア半島を経由するインド洋方面と地中海との交易を支配した。エジプトがプトレマイオス王朝下でも、基本的には農業と農民の国であったのに対し、セレウコス朝支配下のシリアは、交易拠点として多数の都市を建設し、交易路を発展させ、都市の文化を栄えさせた。しかし、やはりセレウコス王国の広大な領土内では独立の動きや謀反が頻発し、それらとの戦いに王国は消耗した。
プトレマイオス朝のエジプトは、アレクサンドロスがフェニキアを征服し、東地中海支配の拠点としてアレクサンドリアを選んだ帰結として、キプロス島、エーゲ海の一部、アナトリアの南西部などを海外領土として保持する海洋王国となり、紅海経由インド洋方面との海路の交易路も開発して繁栄した。しかし、シリアとの戦いに敗れ、前3世紀末には東地中海沿岸地方を失って衰退傾向に陥った。
ヘレニズム諸国の運命については、塩野七生著「ローマ人の物語Ⅱ(ハンニバル戦記)」の第7章「ポエニ戦役その後」、第8章「マケドニア滅亡」などの記述が明快である。ヘレニズム諸国にとって、世界とは東地中海以東のアジア方面でしかなく、西地中海に関心は持たなかった。新興国ローマが地中海の雄カルタゴとの戦闘(第1次ポエニ戦役)に明け暮れる間に付け入る隙はいくらでもあったのに、ヘレニズム諸王朝は彼らの間だけで縁戚を結んだり戦争を繰り返すだけで、全くその動きをみせなかった。ローマが第一次ポエニ戦争に勝利して初めて東方と接触したとき、ギリシャ、マケドニア、ペルガモン、シリア、エジプトなどの諸国はばらばらに対応し、統一戦線を組む気配はなかった。前197年のテッサリアにおけるローマ対マケドニアの戦争、前190年のローマ対シリアのギリシャでの接触戦以降、ヘレニズム諸国家は、ポエニ戦役で鍛えられたローマ軍に全く歯が立たず、ローマの覇権下に名は残しながら次第に衰微していく。
エジプトは地理的に独立しており、プトレマイオス王朝は覇権国家を目指さなかったため最後まで残るが、その威勢も前2世紀以降は衰えがちになり、プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ七世がローマのアウグストゥスに滅ぼされて幕を閉じた。
ここ数年、アレクサンドリアの発掘調査が大々的に進められ、近年海中からクレオパトラの宮殿跡とされる遺跡が発見されるなど、新しい発見が続いている。しかし、アレクサンドリアにあったムーセイオンも図書館も、記録には数多く言及されてその素晴らしさを窺い知ることができるけれども、今ではすべてが失われ、実際の姿について確かなことはほとんど分っていない。前1世紀にカエサルがやってきたときに焼かれ、地震で倒壊して多くの蔵書を失ったほか、ローマによる征服、キリスト教による精神世界の支配、イスラムによる征服などを経験し、7世紀以降にはその輝きを失い、ついにはアレクサンドリア自体が忘れ去られたのであった。